ギャラリー:小野 芳嗣 写真・証

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。
今回は89年1月に日本に帰国して、HW水産部に配属に成ってからの事をお話しします。 
HW水産部で1年位過ぎた頃、お父様からの指示で始まった事業で、アラスカのベーリング海で操業する漁労加工船を、米国50%、韓国30%、日本20%の合弁事業で、出資したオーシャンピース号(会社名もオーシャンピース)の処女航海に行く事に成りました。
中古船を改造しての出発でしたので、水産部長からはテクニシャン2名に同行して、調査して来る様に命を受けました。
テクニシャンと3人でアンカレッジ経由でベーリング海の小さな島(セントポール島)まで小型プロペラ機で向かいました。
全長80m位の漁労加工船オーシャンピース号は、主にスケソウダラやカレイ類の底物を捕ります。
操業が始まり、テクニシャン達からは、アメリカ人の考える加工方式は、オートメーションシステムを取り入れて加工ラインを組んでいるので、洋上では生産効率が良くないと、この船では大した水揚げが見込めないと駄目だしばかり聞かされました。
私自身は漁労の知識も経験も無い人間なのに、テクニシャンは一つ一つオーシャンピース号の問題点を教えてくれました。
結局、処女航海で加工した魚を船倉に満載するまでに40日間もかかりました。
アメリカのベーリング海では、当時はオリンピック方式で年間漁獲量が決められていて、早い物勝ちの方式なので、良く漁労出来る船は収益が多く成るし、余り漁獲を捕れない船は採算が合わない事に成ります。
私が日本に戻り、当時の西田部長に改善点のレポートを提出しましたけど、アメリカの会社なのでそれらの問題改善がなされずに、時が過ぎて行った事だと感じておりました。
ところが、数年前にアラスカのメンバーから聞いた話しで、オーシャンピースが現在は凄い利益を出す会社に成っているとの内容です。
どんな改善が成されたか?興味深く話しを聞くと、ベーリング海での年間漁獲量に対する方式が変わった事が原因だったのです。
早い物勝ちの漁獲量確保では無く、それまでベーリング海で操業して来た漁労加工船に対して、与えられた漁獲枠制度に変わった事だったのです。
どう言う意味か解りますますでしょうか?
これは、結局お父様が30年、40年という先の未来を見据えて、先駆けて進めて下さった事業(漁労加工船)としての漁労加工船を持つ様に指示を出して下さった事により、利益の出るボート(会社)に成れたと私は確信しております。

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。アラスカ体験談7回目をお話ししたく思います。
今回は証し的な内容では有りません。コディアックでのある一日の想い出です。
ある時ボートキャプテンのミッチから、ブラウンベアをハンティングする時の為に
「生息調査に行かないか?」との誘いがあり、ミッチはライフル銃を持ち、私は200mmの望遠レンズを装着したカメラだけを持って出掛けました。
比較的低い山の頂上付近が草原の様に成っていて、そこの茂みの中にブラウンベアーを見つけました。
私はブラウンベアーの姿をカメラに収めたくて、腰をかがめてソロソロと、ゆっくり近づいて行きました。
ミッチは万が一ブラウンベアーが襲って来るかも知れない事に備え、私をガードする様にライフル銃を構えて、
「Ono~Ono~~」ともうそれ以上近づくな!と私を諭す様に、私の名前を連呼したのです。
最終的に私が20m位まで近づいた所で、ブラウンベアーがファイテングポーズを取り出しました。
動物が人間に威嚇するところをイメージして下さい。まさしくその通り「ウ~~」と構えて来たので、
ミッチが大声で「ワアー」と張りあげて、ブラウンベアーを追い払いました。
その時の様子を数枚の写真におさめられたのです。
本来のハンティングならばこんなに近く熊に近づく事は出来ない事でしょう。
熊を仕留める意識も持っていなかったし、ブラウンベアーも丁度親離れしたばかりの若者熊だったからリサーチ出来たと思っております。
本番ではこんなに簡単にブラウンベアーに遭遇出来ないのに、予行練習に限ってはいつも上手くいくものなのですね。

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。
アラスカ体験談6回目に成ります。
皆様はハンティングについてどの様なイメージをお持ちでしょうか?
ある方は動物の殺生はよくないと言われるかも知れないですね。
日本では鹿や猪等の狩りは害獣駆除として行われているのが主だと思います。
私がアラスカコディアックで行なって来たハンティングとは、心身を鍛える訓練であり、万物復帰と捉えて来ました。
鹿、鴨、ウサギ等狩猟した動物は食糧として食べる物なのです。
日本の整備された山を登る登山とは違い、道なき道(獣道)を1m位の高さのブッシュ(草木)をかき分けて登って行きます。
ハンティングは本当にハードワークなのです。
鹿は夜寝る時は、そのブッシュに身を隠して休み、日中は陽当たりの良い場所に出て草を食べます。
ですからハンターとしての私達は山の頂上に立って、辺りを見渡しながら鹿を探します。
それでも鹿の姿を見つけるのは容易では無くて、峰を下ったり上がったり歩き廻って鹿を探します。
勿論見つけ出せずに帰路につく事の方が多いです。
何日も山に足を運んでようやく鹿に出会えます。
鹿を見つけたら風下側から出来る限り近づいていき100m位まで近づいて、やっとライフルを構えて鹿を狙います。
それでもしっかりとライフルを固定出来ないと、銃身が少しズレるだけで鹿の急所に命中出来なくなり、手負いの鹿にして逃してしまいます。
これはハンターとして最もしてはいけない事に成ります。
私がこのハンティングで体験した事で重要な事としてですが、いつもリーダー(クーパーさんだったり先輩)がブッシュをかき分けかき分けして山を登って鹿狩りをして来た時から、今度は自分がリーダーになり後輩とハンティングに出掛けた時、ブッシュをかき分けて山を登って行く中で、アラスカコディアックのブラウンベアーに出合うかも知れない恐怖心等、精神的に物凄く神経を研ぎ澄まして登って行くうちに、開拓して歩む事の重圧を実感したのです。
お父様が私達にいつも先駆者として全てにおいて先頭に立たれて、引っ張って下さったご苦労を少し感じられた体験でした。

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。アラスカ体験談の5回目を投稿致します。
「天の父母様の加護によって生かされたチーフエンジニア」についてお話ししたく思います。
フィッシング大会から戻ったチーフエンジニアのクーパーさんは、工場の2階の事務所に行こうと階段を上っている時につまずいてしまって転びそうに成ったのです。
実はその時ハリバット釣りで大物を釣り上げた時に使用する為に、日本の警察官が所持している同型の回転式ピストルを腰にぶら下げていて、
それが暴発してクーパーさんの足に当たってしまったのです。
皆誰もが大変な事故が起きてしまったと成りますよね!
それでも不幸中の幸いな事として、ピストルの玉がフルメタルの硬いものではなくて、鉛の比較的柔らかな玉で有った事から複雑骨折する事なく、骨にヒビが入る程度の全治1ヶ月の事故でした。
松葉杖で歩く事に成ったチーフエンジニアのクーパーさんですが、少しの入院とリハビリで仕事に復帰して来ました。
そこで、私はチーフのクーパーさんから衝撃的な事実を聞かされたのです。
何とクーパーさんは崔先生主催のフィッシング大会後に、外部の友人と小さなボートで2週間後に離れ小島まで鹿のハンティングに行く計画を持っていて、怪我に依って参加出来なく成ってしまい本当に悔しかったとの事ですが、「行けなく成って本当に良かったんだ。」「実はそのボートが転覆してハンティングに行ったメンバーが全員亡くなってしまった。」「怪我が軽く無理やりにでも参加していたら自分も間違いなく死んでいた。」と話してくれたのです。
私は話しを聞いてゾッとしました。
クーパーさんの暴発事故は物凄い大怪我では無く、かと言って1ヶ月程度は自由を奪われる形を取るしか、クーパーさんの命を助ける事が出来ない様にされた、目に見えない何者かの加護が働いたとしか感じざるを得ませんでした。
この体験もエンジニアの一部メンバーだけにクーパーさんが話してくれました。
アラスカでは様々な霊的体験を多く感じさせて頂きました。
少しずつ投稿していきたく思っています。

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。
アラスカ体験談4回目を投稿します。
「孝進様との奇跡的出会いと私の不信仰姿勢」についてお話し致します。
孝進様がハンティングの為にコディアックを訪ねられました。
毎年8月1日は鹿ハンティングの解禁日に成ります。
コディアック島の面積は日本の青森県と同じ位だそうです。
鹿狩りをする山は数百の山や峰が有ります。
私とボートキャプテンのミッチは、月初めの敬礼式をしたら直ぐにミッチの車でハンティングに出掛けました。
孝進様もウエスタン責任者と鹿狩りに出掛ける事は知っておりました。
私とミッチが今日の山を定めて登山を開始して中腹辺りまで登ったところで、霧が大量に発生して10m先も見えなく成りハンティングどころではなくなったので、草むらに寝転んで休憩する事にしました。
30分位休んでいたら下の方からガサガサと音がするので、ライフルを構えて2人で見つめていたらISAの責任者でした。私とミッチは手を振り声掛けすると、後ろから孝進様の姿も有るのでした。
私とミッチは敬礼して挨拶しました。
何と孝進様一行と山の中腹で合流したのです。
本当に偶然に奇跡的に孝進様とお会いしたのです。
責任者がこれから一緒に同行するか?と言って下さったのです。
でもそこで私とミッチの不信仰姿勢が出たのです。
「大丈夫です。霧がひどいので今日はハンティングを止めて下山します。」と言って同行する事なく別れてしまいました。
その時の正直な気持ちは「孝進様と鹿狩りに同行すると、鹿を仕留めた時の運搬係に成るから止めておこう。」だったのです。
後に成ってから何という行動を私とミッチはしたのだろう!と本当に反省しました。
私の恥ずかしい行動についてお話ししました。
常日頃の信仰姿勢というものが、とっさの判断が要求される時に現れるた事を実感したからです。

兄弟姉妹の皆様、こんにちは。今回はアラスカ体験談3回目で
「真のご父母様との奇跡的(霊的)な出会い」について少々長く成るかも知れませんが投稿します。

コディアックに真のご父母様が訪問して下さる時がやって来ました。
お父様は蕩減条件として魚釣りをなされます。
朝早くから夜遅くまで毎日毎日1週間でも続けます。
ある日曜日で仕事が休みの時、私と4人の姉妹は5m程度のアルミボートで魚釣りに出たのです。
このアルミボートはエンジニアが管理していたボートなので、チーフエンジニアのデビッドに報連相としての行き先(ミル湾)、人数等を報告して出掛けました。
ご父母様のゲストハウスであるノースガーデンで36家庭の崔先生とミーティングをされておられたお父様が突然「今から釣りに行くので近くの海岸に小さなボートを着けなさい。」「そこから乗り込んで釣りを始める。」「後からワンホープ号を回して乗り移れる様にしなさい」と言う様な指示を出されたとの事でした。
責任者は会社に電話してアルミボートをミル湾に回そうと連絡したのにボートが無いとの事で大騒ぎに成っていたと後で知らさせたものでした。
私と4人の姉妹はそんな事とはつゆ知らず、ミル湾に到着して釣りを始めようとしたら海岸の小高い丘に36家庭の崔先生が立っておられるのに気が付いたのです。
すると崔先生が大きな声と手招きで「こっちに来なさい!こっちに来なさい!」と叫ばれておられるのが分かりました。
ボートを岸に向けて走らせていると崔先生の後ろからご父母様が現れたのです。
何事かとビックリしながらボートを海岸に着けたのです。
崔先生がボートを支えながら「早かったね!」、「姉妹達は皆降りなさい」と言われるので皆降りました。
すると崔先生がお父様、お母様を海水に触れさせない様に配慮されてボートに乗せられたのです。
最後に崔先生もボートに飛び乗られて「小野君、ボートを出して!」と言われるので、何が起こったのか理解出来ないまま岸からボートを離して沖まで移動させたのです。
するとご父母様がニコッと微笑んで下さり、ルアーでのサーモン釣りを始められたのです。
30分位小さなボートの中にご父母様と崔先生と私の4人だけの魚釣りをする船がミル湾に有るのです。
小さなボートなので本当に身体のやり場が無いし、揺れるのでとても緊張しっぱなしでした。
30分位するとワンホープ号がやって来まして、ご父母様と崔先生はそちらに乗り移られました。
崔先生は「ありがとう」、「小野君は会社に戻っていいよ」と言われたので1人でアルミボートを走らせ戻りました。
後に成って私なりにお父様の成された事の意味を考えてみて、お父様は間違いなく私が運転するアルミのボートがミル湾にやって来る事をご存知であった。
まさに霊的な力を持たれて見通されておられる事を実感するものでした。
そしてお父様の声なき声の様な想いが伝わって来たのでした。
「お父様は本当は多くの兄弟姉妹と心情因縁を持ちたいけど時間が足りないんだよ」、「一瞬でも関係を持てた事を忘れないで歩むんだよ」と言われている様に感じました。

兄弟姉妹の皆様、昨日に続き第2回アラスカ体験談を投稿します。
サーモン漁期修了後の10月に毎年崔先生の計らいで、GOODGOを使ってのフィシィング、ハンティング大会を開催して下さいました。
ハリバット釣りに各ボートに7〜8名の兄弟姉妹が船に乗り込みます。
各船長の船頭の元釣り場に船を走らせます。
釣りで重要な事で船長との信頼関係が重要な事は言うまでも無いですよね!
私の乗り込んだ船長はフランス人のジョンと言う兄弟で、釣り場に到着させると「さぁ
ここで釣ろう」と号令を掛けました。
ただ誰もが不信感の感情を隠さずにはいられなかったのです。
そこは海底が丸見えの水深3〜4m程度の浅瀬なのです。
ハリバットは大きい物は100poundを越えます。
底を覗き込んでも何も魚影が無いのです。
皆不信感で開いた口が塞がらない状況です。
それでも一人の本当に信仰の有るお姉さんは素直に「はい」と言って釣り竿に餌を付けて釣りを始めました。
皆も仕方なく釣りを始めるしか有りません。
船は錨を打たない流しでしていたので、暫くすると海底は見えなく成りました。
すると一番始めから何の不信感も持たなかったマサコさんが「針が岩に引っ掛かったみたい」と言うのです。
根がかりでもしたと思ってリールを巻いていくと、何と何も抵抗する事なくワールドレコードクラスのハリバットがゆっくり水面に来るのです。
皆ビックリしました。
魚は霊的な物で釣られたい人を選ぶのだと実感したものです。
3日間に渡るフィシィング大会が閉幕して結局マサコさんが優勝しました。
私も何とか80pound位のハリバットは大会中で釣る事は出来ましたけども、100poundオーバーのハリバットが釣りたくて何度も何度も釣りに行きましたけどずーっと釣れなかったのです。
次回の3回目はご父母様との奇跡的出会いを投稿致します。

兄弟姉妹の皆様、今回はアラスカ体験談第1回を投稿したく思います。
84年3月に機動隊からNYに渡米して、始めに神山先生から講義を受けてコディアックに行きました。
当時はまだアメリカ50州を代表する為に集められた50名の姉妹達が全員揃って無くて、5〜6名の1陣メンバーと男性も36家庭の崔先生を社長として、1800双の高木副社長、1610双のメンバーが10名程度でした。
84年6月から具体的に始まるサーモンの買付け及び筋子加工、ラウンド凍結等の為の準備をISA工場でする日々でした。
ISAには勿論ウエスタンメンバーの幹部もいました。
私はオーストラリア人のデビッドクーパーさんというチーフエンジニアがアベルに成りました。
皆さんに想像して頂きたいのですが、私の英語力は中学1年レベル程度のものでした。
ですから先ずは英語の勉強をしないとアベルからの仕事の指示すら分からない状況です。
ただ不思議とエンジニアには外来語として使って来た英語が多く有るもので、チーフが何をして欲しいと言わんとするのかが理解出来ました。
クーパーさんからは仕事以外にもハンティングや釣りに誘って頂き、交流を多くする中で日々感動と成長と訓練の実感のある毎日を過ごしていきました。
初めて狩りをした鹿の解体写真と名節の写真をアップして今日はここまでにしますね。

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